ぽかぽかと春の誘いにのって、上着を一つ脱いで散歩に出かけたくなるような日もあれば、みぞれまじりの冷たい雨が降る日もあり、まさに三寒四温の春始まりです。二十四節気は、冬ごもりしていた虫が春の陽気に誘われて地上へ出てくる頃、啓蟄(3月5日)を迎えています。七十二候は、蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく3月5日~9日頃)、桃始笑(ももはじめてわらう3月10日~14日頃)、菜虫化蝶(なむしちょうとなる3月15日~19日頃)、と続きます。「虫出しの雷」と言われる春雷が鳴り、虫だけでなく、ヘビやカエル、動物たちなど土に潜む生き物たちが目覚め、桃の花はほころび、青虫は孵化する、という、自然界の循環と再生を感じさせる候となります。

啓蟄の頃は自然が一進一退、でも確実に動き出します。それと同じように、体もそれに合わせて緩んだり緊張したりと調整に忙しく、自律神経の揺らぎが激しい時。この切り替えがうまくゆかないと、だるさや眠気、頭痛、肩こり、気分の落ち込み、朝が起きにくい、などという体調不調が起こります。啓蟄は身体も冬から春へ切り替わる時期、慌てずゆっくりと目覚めるような対策が適します。その、目覚めの季節にふさわしい、軽やかで香りのある食材が揃うこの時期、春キャベツ、新タマネギ、ナノハナ、フキノトウ、タケノコ、ウドやイチゴ、魚はサワラやサクラダイ、アサリ・ハマグリなどなど、冬の名残と春の息吹が同時に食卓に現れる時期です。旬の食材は香り・ほろ苦さ・瑞々しさを生かした調理法で、「春への切り替え」を助けてもらいましょう。

桃や沈丁花、フリージア、ライラック、スイセン、など、春に楽しい香りの花々の数々ですが、やっぱり、梅の香りは特別です。種類によって、香りも違います。軽やかな香りのもの、瑞々しい香りのもの、甘く香るものなど、先日、近くの公園で梅の花に鼻を近づけ、たくさんの種類の香りを吸い込みました。春が来たな、と、改めて感じられる清々しい時でした。いつでも春を感じられるように梅の精油などないものかと思いますが、実は、梅そのものの純粋な精油は、ほとんど存在しないのが現状です。花が繊細で、蒸留中に香り成分が壊れやすく、花の採取量が限られる、香り成分が揮発しにくく、精油として分離しにくい、などの理由があります。そのため、一般的に市場に出回る「梅の香り」は、残念ながら、調香による再現香がほとんどです。
さて、その香りの素、精油とは何でしょう?精油(エッセンシャルオイル)とは、植物から得られる揮発性物質で、花、葉、果皮、樹皮などから、水蒸気蒸留や圧搾などの技術で抽出されます。多くの化合物が混ざった複雑な香りの集合体で、水に溶けず、アルコールや油に溶ける性質を持っています。植物体の内部でフェロモンや防御物質として作りだすものが香りの成分の基になっています。大量の植物からほんの少ししかとれない貴重な抽出物ですので、大事に丁寧に使いたいものです。また、精油は天然の植物から抽出された芳香成分ですが、アロマオイルは合成香料や溶剤を含む場合があるため、あくまでも香りそのものを楽しむもので、セラピーには使えません。
香りの成分を構成するものは揮発性有機化合物という分子で、テルペン類やエステル類、アルコール類、アルデヒド類、フェノール類などがあり、それらが組み合わさることにより植物ごとの複雑な個性が産まれるのです。そこで、梅の香り。梅の花の精油はありませんが、梅の花に近い香り成分を持つものとして、ジャスミン、イランイラン、クチナシなどがあります。

なかでも、イランイランは初心者にも使いやすい精油です。イランイラン(学名Cananga odorata)は東南アジアからオーストラリア北部の熱帯域を原産とし、インド、インドシナ半島~オーストラリア北部に生息し、マダガスカルやフィリピンなどで精油生産が盛んです。タガログ語で「花の中の花」という意味があり、名前そのものが香りの象徴として扱われてきた植物です。精油は花から水蒸気蒸留で抽出されます。日本では明治末期から大正時代に観賞用として導入され、昭和以降に香料原料として知られるようになりました。
その香りは、甘く、濃く、春の目覚めにぴったりです。この精油は心への作用が強く、ストレスの緊張を緩め、気分の落ち込みを和らげるとされ、高血圧の改善やホルモンバラスの調整、眠りの改善が期待できます。アロマランプなどを使っての芳香浴がお勧めです。ハンカチやティッシュペーパーに数滴落とし、そばに置いておくだけでも豊かな香りが続きます。ラベンダーやローズマリーなどとブレンドして、お好みの香りに仕立てるのも良いですね。ただ、香りが強く作用も豊かなので、使用には注意が必要です。妊娠中の使用は禁忌とされています。また、使用量には常に注意して、少なめに。

初めて、この香りを知った時、びっくりしました。まずは目が覚めるような甘く強い香りその場の空気を一変するかと思いきや、その奥から爽やかな香りや軽く華やかな香り、そして、しんと深い森の木のような香り…と、次々と飛び出す香りの要素、そして、南国の花であることを知ると、ゴーギャンの絵のような、そんな景色が浮かびました。その香りの饒舌さは、なるほど、シャネルのNo.5をはじめ、多くの有名な香水やオーデコロンに使われているそうです。私自身、アロマセラピーの深い道につながった、目覚めの香りの一つです。
大地が緩み、春が動き出す啓蟄の時、冬の間閉じていたものがそっと開き始める時。イランイランの甘く深い香りは、春のゆるみに寄り添い、緊張をほどいてくれるような香りです。今夜も枕元のアロマランプにはイランイランを一滴落として休みましょう。
皆様はイランイランの香りに何を思うでしょう?明日はどんな香りと出会えるでしょう。どうぞぐっすりお休みください。
染谷雅子

